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明治天皇さまのお后(きさき)さまなら「皇太后」でなく「皇后」とお呼びするのが正しいのではないかという考え方もございますが、実はこのいきさつについてはたいへん難しい問題があります。
昭憲さまは嘉永(かえい)3年(1850)4月17日(新暦5月28日)一条忠香(ただか)の三女として御誕生あそばされました。はじめ勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)、寿栄君(すえぎみ)などと呼ばれ、入内(じゅだい)※1後、美子(はるこ)と称されました。明治元年12月28日御入内まもなく皇后の宣下(せんげ)※2があり明治天皇さまのお后となられました。大正3年4月11日に崩御※3されています。同年5月9日に宮内省告示第九号により「昭憲皇太后」のご追号が仰せ出されたのでした。そして大正4年5月1日には明治神宮の御祭神として内務省告示第三十号により祭神「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表されたのです。
ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。
1. 両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって
「天皇皇太后両陛下」とは称さないこと。「皇太后」は天皇の母親の意味であること。
よって明治神宮の御祭神は御夫婦であられるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。
2. 亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は
「皇后」より下の位になる。だから昭憲さまは生前「皇后」でしたので、
「昭憲皇后」と称するのが正しいことになる。
では、なぜこのような称号をつけてしまったのでしょうか。
昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。すでに明治天皇は崩御され(明治45年7月30日)、大正天皇が践祚(せんそ)※4されたので皇太后となられたのでした。崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可※5となったのです。
はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。そしてそのまま御祭神名も「昭憲皇太后」としてしまったのです。
このような経緯から明治神宮の御祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、御鎮座寸前の大正9年8月9日(明治神宮の御鎮座は大正9年11月1日)明治神宮奉賛会会長徳川家達(いえさと)より宮内大臣宛へ建議が出されました。
しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。
その理由として
1. 天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
2. すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。
の二点があげられています。
時代が下って昭和38年12月10日、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり宮内庁へ「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」が神宮より、また崇敬会会長高橋龍太郎より「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」が提出され、続いて昭和42年12月26日に明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」が提出されました。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったそうです。
御鎮座当時首相であった原敬は「他日、何かの機会及び形式において昭憲皇太后を神功皇后※6檀林皇后※7などの前例によって、一般には昭憲皇后と称し奉りても違法ではないことの趣旨を明らかにしておくことが必要であろう。」と言っています。(『原敬日記』大正9年10月13日)
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| ※1入内(じゅだい) |
中宮・皇后・女後などが正式に内裏に参入すること。 |
| ※2宣下(せんげ) |
天皇の命を伝える公文書を下すこと。 |
| ※3崩御(ほうぎょ) |
天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去をいう語。 |
| ※4践祚(せんそ) |
皇嗣が天皇の位を受け継ぐこと。 |
| ※5裁可(さいか) |
1.君主が臣下に奏する案文を親裁許可すること。
2.明治憲法下で、天皇が議会の協賛した法律案及び予算案を親しく裁量して、確定の力を付与した意思表示。その形式として御名を署し、御璽を押印した。勅裁。 |
| ※6神功皇后 |
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。新羅(しらぎ)を征して凱旋し、応神天皇を筑紫で出産した。 |
| ※7檀林皇后 |
嵯峨天皇の皇后。 |
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