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明治神宮関係
清正の井戸は本当に加藤清正が掘ったのですか?

 明治神宮の御苑の中に都会では珍しい湧水の井戸があります。東京都の調査では水温は四季を通じて15度前後と一定していて、毎分60リットルの湧水量があり、昔から「清正の井」といわれ加藤清正が自ら掘ったとされています。では本当に加藤清正が作ったのでしょうか?素朴な質問ですが、これについてお話しましょう。

 加藤清正は安土桃山・江戸初期の武将で朝鮮出兵での「虎退治」の話は有名です。かなりの大男だったようで昭和10年頃東京上野科学博物館で清正の手形が展示されましたが当時の相撲の巨漢出羽カ嶽文治郎(約204cm、187kg)の手形も同時に展示され、その力士よりも手が大きかったそうです。清正は名高い武将であると同時に城造り・治水・干拓の技術にも優れていて「築城の名人」(熊本城・名古屋城)、「土木の神様」とも称されていました。
 「清正の井」のあるこの地は江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子忠広が住んでいたことは間違いないようですが、清正本人が住んでいたかは定かではありません。まもなく加藤家が絶え、その後井伊家の下屋敷となりました。

写真 しかし井伊家の下屋敷になってからも清正にまつわる伝説が伝えられ、萩の庭には清正が朝鮮で虎を槍で突いた時の血しぶきが竹の幹に斑についたとされる「清正将来の虎斑竹〈とらふだけ〉」(本当は「雲紋竹」と言われる竹の種類)や清正が園内散歩の折り腰掛けて休憩したと言われる「清正の腰懸石」があり、この石に座ったり、さわったりすると瘧(おこり・一般にマラリアを指す)になるといわれます。また清正の「手弄石」(『大日本名所図絵』記載)といって大きな岩があったとされますが、どの石のことか不明で一説には腰懸石ではないかとされています。そしてそれらの中で最も有名なのが清正が掘ったとされる「清正の井」です。

 造営当時すでに横井戸(普通は竪井戸)であることは解っていましたが水源はどこなのか、またどのようにして流れてきているのかまったく不明でした。昔から特殊な技巧で水が湧出するのだと考えられ、今は枯れてありませんが井戸の近くにあった大杉の根元あたりに何か特別の調節装置が設けてあって、そこへ一旦水を溜めてそれが自然に噴出するような仕組みになっていると考えられ、そのような特殊な井戸を作れるのは「土木の神様」といわれた清正しかいないとする伝説が生まれたのでしょう。戦前には熊本より加藤清正の研究家が上京し、清正伝説の中に清正の掘った井戸ならば9箇所の隠し井戸があるはずと付近を実地調査したのですがとうとう発見できませんでした。
写真 この井戸は年間を通じて涸れることがなかったのですが、造営当時まわりの木を伐採・移し替えたら一時水が枯渇したので、またあわてて樹木を植え移し戻したら元のように水が出始めたそうです。
 大正12年の関東大震災以後には大雨になると白濁になり、また昭和8年の大干ばつには一時湧水が止まりましたので昭和13年修復工事を行うこととなり、それと同時に水源調査が行われました。その結果水源は御本殿西側権殿敷地付近一帯(現在の本殿倉庫)の浅い地下水が二方向の自然の水路に流れて、井戸の上方斜面から井戸に湧出するまったく自然の湧水であることが解りました。この工事の際旧態を保つため、また水が集まりやすい様に斜面をコンクリートでおおいかぶせ集水槽導笈を新たにしました。しかし、その修復工事からはや60年近くもたち、修復当時の木造も腐朽しましたので平成8年8月30日、59年ぶりに修復工事が行われています。

 以上「清正の井」が本当に清正が掘ったかどうかは不明ですが、昔からこの地にこれほどたくさんの清正伝説があることは何らかの深い関係があったのだと思います。昔から言い伝えられてきた伝説はすなおに受けとめ、語り継いでいきましょう。また都会では数少ない、しかも今では貴重な湧水となっている「清正の井」を大切に守っていきたいものです。
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