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コラム「大和心」


文の弊たるや弱、武の弊たるたるや、愚。
武は以て弱を矯(た)むるべく、文は以て愚を医すべし。
             ――水戸学『弘道館記述義』より

 文武両道とか、文武兼備とは、現代でも一般社会教育や学校教育でも出てくる教訓的言葉であるが、その意味合いは動的な運動や体育スポーツと静的な勉学の両立というほどの浅いもので、日本の歴史伝統にもとづいた人格形成に発奮を促す強さはない。
 しかしこの言葉のめざすところは、力強く奥深いものがある。現代の世相でも、単に青少年育成の教訓というだけにとどまらず、政治・外交・国防等を担う為政者クラスの人格形成に必須の修養となるべきものであって、熟考含味して実行すべき言葉である。
 
 水戸学は、明治維新の尊皇攘夷思想の発信源ともいえるが、水戸藩の二代藩主光圀(義公、水戸黄門で有名)が、有為なる人材を集め、史局を設けて史書の研究をさせたのがはじまり(1657)。
 九代藩主の徳川斉昭が藩校として弘道館を創設(1841)、自らその設立の趣旨を述べたのが『弘道館記』。その解説として参謀役の藤田東湖が書いたのが『弘道館記述義』で、会澤正志斎の一世を風靡した『新論』と並んで、全国の維新の志士たちに思想面で大きな影響を与えた文章として有名である。
 弘道館記には、館が設けられた理由が記されている。

我が東照宮(徳川家康)、撥乱反正〈乱世を治めて正道にかえす〉、尊皇攘夷〈皇室を尊び夷狄(いてき)を攘(はら)う〉、允(まこと)に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。

 と、まず徳川家康が戦国乱世を正して太平の基を開いたことを称え、次に威公(初代藩主頼房)が特に日本武尊(やまとたけるのみこと)の為人(ひととなり)を慕い、神道を尊び、武備を怠らなかったこと。そして義公(第二代藩主光圀)が、その志を継承し、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)の伝を読んで、兄弟が国君の地位を譲りあった話に感憤して、儒教を崇び、人倫を明らかにして、名を正して、もって国家の藩屏(はんぺい)となって、百数十年が経過したことが記述されている。臣子たる者は、「斯道を推し弘め、先徳を発揮する所以」を思わなくてはならない、として弘道館が設立された。

 つまり徳川家康公が、撥乱反正、尊皇攘夷を実践して、允武允文(武と文を本来あるべき姿にして)、太平の基を開いた文武両徳の備わった名将であり、頼房、光圀もそうした伝統を継いだ名将であったことが謳われている。
 これに加えて、最後の将軍となった水戸の一橋慶喜は、家康に匹敵するほどの名将の器とも称されていたことを考え合わせると、なぜに徳川幕府が亡びてしまったのか――。

 しかし、明治維新史は、その徳川幕府政権が瓦解、薩長連合勢力によって倒されて第一幕は終わる。この間の、尊皇攘夷史の推移は興味深く、権力闘争史として重要であるが、ここでは文武観のみを記す。
 冒頭に掲げた弘道館記述義の文武の道には、次のような要を得た説明がある。

蓋し文武の道には、おのおの小大あり。天地を経緯し、禍乱を克定(こくてい)するは、これその大なるものなり。書を読み冊を挟(はさ)み、剣を撃ち矛(ほこ)を奮ふは、これその小なるものなり。
然れども書冊は道義を講ずる所以にして、剣矛は心胆を練る所以なり。心胆実(み)ちて、しかる後に以て難に臨み変を制すべく、道義明らかにして、しかる後に以て己を修め人を治むべし。

 とある。まさに文武の小大の別をわきまえた上で、書册で道義を講じ、心胆を練って難に臨み変を制するようにすることが文武の道ということができよう。日本の武道は、この文武不岐の道を探求するといってよいだろう。(い)

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