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コラム「大和心」
タイトル

 鹿島神宮にはご祭神、武甕雷神(タケミカヅチノカミ)の荒魂(あらみたま)を祀る奥宮がある。日本神話にあらわれた天神に忠勇なる武神を祀る同神宮に、本殿とは別に荒魂を祀る奥宮があるというのはいかなる意味があるのだろうか。
 和魂(にぎみたま)と荒魂という古代人の霊魂観について、戦前に刊行された『神道大辞典』(宮地直一・佐伯有義監修)は、人間の日常の行動に、平静と活動との二方面の性格があり、古代人はその作用を起こさしむる各別の原動が対立的に存するものと信じたとして、和魂と荒魂を次のように記述している。

 和魂とはこれが平和・仁義の徳を、荒魂とは、勇猛・進取の作用といへるもの。前者は静止的若くは調節的で、常の状態にあるを指し、後者は常の状態より脱出したる活動もしくは荒びすさむ状態を意味する。

 学生なら授業、一般人なら仕事を終えて武道場で稽古するには、あらかじめ“心と体”の準備をして、それなりに“やる気”を鼓舞してから練成に入っていることは、誰しも同じであろう。神拝は、武神への祈り。それは意識するか否かは別として、ご神意を慮(おもんぱか)り、神技に近づいて行く(神人一如)というのが、修練の目的といえるだろう。それらの行為は、まさに神道的修行であるが、日本人はあまり意識していない。和魂と荒魂の二つの作用について、武道修練の面から少し考えてみよう。

 武道は、体育スポーツのような、単なる体の訓練ではない。仏教の修行の影響は大きいが、仏教が入ってきたから武道が起ったということではない。では、仏教渡来前の武道はいかなるものであったのか――。
 和魂と荒魂という古代人の神霊観と武道とのかかわりはいかなるものであったか。
 武甕雷神という一箇の神格が、和魂と荒魂とに分けて祀られている。そのことは、平静と活動、平和、仁慈の徳と勇猛、進取の二つの作用に分離してあらわれてそれぞれの社殿に鎮まっているということができよう。

 武神の二つの作用と同じように、どのような人間であっても静止的、もしくは調節的な常の状態と、常の状態ではない活動力もしくは荒びすさむ状態の二つをもっている。普段人間は、静止的で調節的な常の状態(和魂)にある。しかし常の状態を脱出して活動的となり、特に“緊急・非常”となると荒びすさむ状態となる。

 武道は、この荒びすさむ状態での緊急・非常に対処しうる鍛錬ということができるが、そこには自づから表裏となる二つの修練が必要となる。

 一つは、和魂の常の状態から、荒魂の常の状態から脱出した状態での修練である。それは、心・気・力とか、心・技・体の一致といわれるように、よくいえば精神・肉体・技量の三者が最高度に達した域へ行く過程であるが、悪くいえば、最も荒びすさんだ状態ともいえる。
 厳しい稽古で、荒魂を練って戦闘的活動的状態が続いたあとに、常の状態に戻すにはどうするのか――自然に戻ってしまうのか。それともそれなりの修練が必要なのであろうか。

 もちろん精神(神経)の緊張と、気概の養成と体力の疲労が適度であれば、それなりの荒魂の鎮めとはなる(楽しむことを目的とするスポーツなら、発散して気分爽快という状態となろう)だが、非常事態は、人間の制禦コントロールのきかない生命力が破壊されてしまう危険な場合である。だからこそ緊急非常事態の荒魂を鎮めて、元の和魂の状態に戻す修練(養)が、ぜひとも必要となってくる。まさにこの荒魂から、和魂に戻る修練工夫がなければ、自壊・自滅してしまうだけでなく他をもまき込んで破壊してしまうことになる。和魂と荒魂を祀るお社が、別々にあるということは、荒魂が元に戻って、和魂に統一された状態にならなかったということなのか――。そこには、荒魂の荒びすさむ働きの強大さを想像すると共に、その鎮めの難しさを表しているということができるだろう。

 武道の神々への祈りの中には、ご神意を慮り、神業に至る修練と共に、荒魂を鎮め和魂に戻す表裏一体の修練が重なりあっているようにも思える。両面の修練の創意工夫が必要なのである。(い)

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