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コラム「大和心」
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 今、日本を含む世界の大半は「新自由主義」のメカニズムの中に飲み込まれている。「新自由主義」とは、レーガン・サッチャー政権以降、急速に冷戦後の新世界秩序の座を占めるようになった市場を中心とする教義で、「市場の自由・公平性」こそが「倫理」であり、国家に代わる機能として、人間の行為すべてを導くことができる指針であるという。

 「新自由主義」が国家の権力を獲得していくプロセスは、「税制改革」等の法律的な枠組み、「構造改革」等の制度的な枠組みを作ることによって、市場が要求する「自由」を正当化していくというものだ。

 ルールというものは一見平等そうに見えるが、現実の世界では均一には働かない。とりわけ経済的な意味での自由のルールとは、現実には富の力を得た者に有利なルールとなるため、貧困層は自由を奪われることになる。

なぜ武道は死生観の超越をテーマに据えるのか

 そもそも「自由」とは何だろう。現代は、極めて表層的な要求が満たされることも、一般的には自由だと考えられがちである。今好きなことをやるわがままな欲望を満たすことさえ自由の発露のように思われがちだが、その一時的な自由を満たしたことを後で後悔するなどという経験はないだろうか。表層の要求を満たすことを優先してしまったがゆえに、深層にある真心の自由を侵害してしまうという経験だ。これは自分自身の深層に、無意識の真心が存在し、その自由を侵害してしまったがゆえに、それが後悔という形で現われるのではないだろうか。

 武道の視点から「自由」を考えていくと、それは間違いなく死生観の超越というテーマに行きつく。すなわち、生き死の問題を超越した時にはじめて、真の自由を獲得することができるという考え方である。

 人間社会には、法律的な規制や商売上のルールなど、人間の行動に制限を加える様々な規制が存在する。真に自由な思考とは、そういった縛りから解放されることを意味する。

 人がなぜ自由になれないかと言うと、そうすれば罰則を受けるとか、何らかの不利益を被ることを避けようして、自ら自由を抑制しているのである。

 もちろんこれは法律や制度だけの問題ではない。地位や職、生活や財産等への執着心から、自らの行動を抑制するのだ。

 そのような人間の自由意思を抑制させるものの中で、もっとも大きなものが「死」である。自由になりたいが、死んでしまっては元も子もない。死ぬことだけは避けたい。だから、最後に自身の自由を抑制するものは死だと言っていい。

 逆に言えば、それさえ克服できれば、予見しうる最高の自由を手に入れることができるというわけだ。生き死の問題を克服することに武道の主眼が置かれるのは、換言すれば、「最大の意志の自由」を獲得することが、修行の目的になっていることを意味している。

 最大の意志の自由を獲得できれば、これ以上ない自由な判断ができ、自由な行動がとれる。何者もこのような人物を拘束することはできないであろう。

 「法律があるから」、「制度があるから」などと言っているうちは、所詮与えられた自由を本当の自由と勘違いしているに過ぎない。武道的視点での主体的な自由の獲得とは全く次元の違うことである。

死を超越してこそ究極の自由を獲得することができる

 死を超越した自由の立場から見れば、新自由主義者たちが主張している「自由」とは、限られた富裕者の自由と大多数の貧困者の不自由を形成する新たな支配構造で、本質的「自由」とは似ても似つかないものである。生き死の問題を探求する武道の鍛錬や教育は、真の意味での自由教育であると言えるであろう。

 こう考えると、現代では「自由が大切だ、大切だ」と言われながら、百年二百年前の日本人と比べてよっぽど不自由な生活を送っているのではないかと思われる。

 江戸末期から明治の時代には、生き死の問題で自分の意志を曲げることのなかった人が、現代よりも確実に多かったのではないか。少なくとも国政に携わり、何らかの指導的な立場に着く人々は、そうした精神の自由の旺盛な人たちが多かったと思われる。少なくとも、そうした真の自由な人たちの政治の世界における比率が、今と比べればはるかに高かったがゆえに、政治にもダイナミズムがあった。そして民の力にもパワーがあった。

 よく「人権思想が自由を守っている」と思われることが多い。しかし実際には、この人権思想こそが、「与えられた自由」の典型である。そうした自由は、他者から担保され、許された範囲内の自由に過ぎない。それに比べ、かつての日本人は、国家や特定の権力から威圧や圧力があったとしても、それに対抗し反発するだけの自由意志を持っていた。

 日本人には、昔から「判官贔屓(ほうがんびいき)」など正しい弱者に賛同する風土があった。戊辰戦争の頃の新聞を見ると、一般庶民の間でも、理不尽なサムライに対しては、侍が刀を抜いても「切って見やがれ」といって一歩も引かない庶民の話などがよく登場した。

 現代の日本でそんなことのできる人はどれだけいるだろうか。そこまでしても意志を貫こうという目的意識を持った人がどれだけいるのだろうか。

 かつての日本人は、命を張ってでも守りたい価値観をしっかりと持っていた。「たとえ殺されたからと言ってその信念を曲げてなるものか」という気概があった。それこそが、自由意思の実態としての発露である。

 それと比べれば現代人は、生か死かというはるか前の段階ですでに腰が引けているような状況だ。こうして考えてみると、江戸、明治から比べて、現代ははるかに不自由な社会になったとも言える。

 現代の日本にあって、武道は、本来の自由とはどのようなものだったのかを主体的に獲得することのできる数少ない手段である。

 楠木正成が武士の誉れとして崇(あが)められる理由は、彼が死して自ら期した忠義を貫徹したからだ。自由意思を最後まで貫くことで死を選択したからだ。武道を通じて真の自由を修養したいものだ。(あ)

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