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コラム「大和心」
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 現代のリーダーの選出・育成のしかたは、文章化した理論や数理のみを学んで、その理解力を持って能力評価がされている。

 少し前までは、会社の経営者も、どうすれば業績が上がるかではなく、どうすれば会社を正しく運営できるかを熟知している実務経験者が就いていた。つまり、会社の業務経験から感性を高めた人がリーダーになるというプロセスが存在したが、現在では、機関投資家が決めたCEOが会社を経営する時代となった。

 行政・司法のエリートも、法規法令の勉学に専念し、理屈の達人にはなるが、日本の精神文化や国民の心情を知る感性の鍛練が為されていない。

 政治家は、選挙と政局に明け暮れ、国体観や政治感覚の修練もないまま、学者や官僚をブレーンとして頼り、結果として、国家国民の心情や実態から乖離した輸入された理論をマニュアル化して国家の運営をしてきた。

 社会がグローバル化するにしたがって、情報の共有化が進み、理性に依存する領域が拡大することは必然である。しかし、カントが批判しているように、理性も本来は、経験に基づくべきものである。

 感性を鍛錬して悟性に至り、そのプロセスを踏まえた上で理性化されたものは非常に意味がある。しかし、文字と数理が、感性と悟性の実証を経ないまま権力を持つと実社会は破壊される。

 理論のみを根拠にした理論、数理のみを根拠にした数理、これは明らかに推論に推論を重ねたものであり、どんどん真実から離れていく。薬で例えるなら、効果小にして副作用大というような、到底認可できない有害薬剤だ。

 そこで、少し「感性」の話をしてみたい。

 「感性」を鍛えて「悟性」まで高める武道
 「感性」とは、「無意識」の領域の認識能力であり、それが、自己の意識の中である確証を得たものを「悟性」と呼ぶ。それをさらに言葉として普遍化させると「理性」に至る。理性まで行くと明確に「意識」の領域において、自己の経験に基づいた感性と悟性を他者に伝えることができる。

 修行としての武道は本来、感性を鍛えて悟性まで高めるプロセスであった。感性を鍛錬して悟性をひとつの終着点と捉えるのである。

 高名な武道家が、修行中、師から「あれを持ってこい、これを持ってこい」という指示をされる。「あれ」や「これ」で師が何を指しているかを感じ取れるような感性を養うためであろう。師が言う今日の「あれ」と明日の「あれ」は当然全く別のことを指している。誰にでも分かるような理性的で親切な指示ではない。こうしたやり取りを通じて感性の鍛錬を弟子にさせていたのであろう。

 武道においては、このように感性を鍛えて悟性に至ることが本質であり、そちらの方が術技を伝えることよりもはるかに重要だとされた。

 「言挙げせぬ」感性豊かな日本文化
 日本の文化は、武道に限らず感性と悟性を重要視する。西洋では、理性を高位に位置づけるが、日本では、感性の未熟な者に、自己の修業体験から得たものを言葉で正しく伝えることは困難と考え、また、言葉より実行で示すことが大事とする傾向が強い。

 柿本人麻呂の歌に「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」とあるが、神を感じ、宇宙を感じ、目に見えぬものを感じる感性の豊かな人が、それを感性貧困な知識人に言葉で伝えようとしても不可能だからだ。私自身、武道を指導していながら、武道で得た体感を人に伝えるのは本当に難しい。言葉で的確に表しようがない。感性豊かなアーティストは、いくらその感覚を表現しようとしても物足りなさを感じるだろう。

 理性とは、いわば経験に基づいた比喩・推論の領域である。西洋において、理性を最高位に位置づけた背景はギリシャ哲学や宗教上の理由からだろう。

 ギリシャ哲学では、徳や神の概念など、神道との類似性もあるが、その意識化の手段として、「ことば」による対話を重視した。ユダヤ・キリスト教の創造主は「ことば」で世界を創造した。かくして「ことば」は徳や神と同一化され、言葉にならないものは怪しげなものとみなされた。

 米国の思想史で重要な地位を占める『理性の時代』を記したトマス・ペインは、新約聖書を批判して、キリストの言葉を文字にした時点でそれは「推論化」されており、そこには他者の解釈が介在しているとして、脱聖書を説き、また文字化された神を否定し、実在する宇宙の天地万物こそ「神のことば」だとした。しかし、彼の本意かどうかは分からないが、聖書に変わって、「人権」と「理性」と「科学」が排他的正当性を勝ち得て、神格化されることとなった。これは、日本人的感覚からすれば、やはり、推論の範疇である。

 神道的に考えるならば、キリストを信仰するのであれば、キリストを祀(まつ)り、各人がキリストの心と直接対話すればいい、ということになる。ただしそのためには理性ではなく感性が作用しなくてはキリストを感じることはできない。そこで日本人は、修練という「行」を通じて感性を磨き、神の心や自然の天理を感じ取ることに重きを置き、感性を鍛錬して悟性に辿りつくことを目指したのである。

 悟性に辿りついた後は、理性により、言葉として理論化するより、正しいと確信したことは実践して範を示す。これは日本において、少なくとも武士の時代まで続いてきた思考と行動のパターンであった。

 感性で探り、悟性で理解し、理性は行動で示す。さらにまた、その行動を通じて感じ得たものから、さらに高い悟性に至り、次なる行動に繋げるというパターンを繰り返していく。武道は、この思考と行動のパターンを凝縮した実践倫理の「道」だと言える。

リーダー教育に必要な感性・悟性を鍛える武道
 武家の統治時代のリーダーは、例えば徳川将軍は、柳生のような当代一流の武道家を雇って一般の兵卒よりもはるかに厳しい武道の修行をしたし、ある武家では、教えても分からぬ跡継ぎは、柱に貼り付けて戦場に立て、軍とは何か、政治とは何かを体感させたという話もある。

 これはリーダーの資質として、感性と悟性の修養をさせることが大事だという認識があったからに他ならない。

 北条は「禅」を、徳川は「儒学」を武士に広めたが、それぞれが生きた学問になりえたのは、武道の修練という基礎前提があったからである。

 本来、国家はもちろんのこと、組織のリーダーには、感性のいい人を選ぶべきだ。さらに、長期的な視野に立つならば、子供の頃から、感性を養うことを大事にした教育をしていかなければ、真にリーダーの資質を備えた人物は育たない。

 そういう意味でも、武道を中心とした感性を鍛錬する修行は、人間形成において、特に指導的な立場に立つ者にとっては不可欠である。

 感性が貧困だということは、物事の本質を理解する能力がないことを意味している。当然指導者には不向きである。

 官僚や学者は、過去の経緯を文字で理解することには優れている。しかし、将来に対処すべき指導者に求められている先見洞察力は、文字で理解できる推論の領域を越え、感性を働かせなければできない領域だ。

 感性を磨く修行はもちろん武道以外にも存在するが、武道の場合は自由意志を持った相手と対峙するという状況における感性なので、普通の芸事とは異なっている。武道を通じて養われる、他者の存在を前提とした感性は、本来政治的な指導者には不可欠なもののはずである。

 自由意思を持っている相手と対峙する経験から、間とタイミングという時間的、空間的な勘所と心理的洞察力が養われる。後は、理性による推論の応用力で、政治にも応用できるのだ。武術の達人である上泉信綱を武田信玄が召抱えたいと望んだのも、宮本武蔵を細川藩主が客分として優遇したのも、深い意味での政治顧問としてであった。

 武道を通じた感性の鍛錬を教育の中心に据え、30年後、40年後を見据えた優れたリーダーを育てることは、理性に偏重した現代社会において重要な意義を持つものと考える。 (あ)

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