ample

【平成19年】

夏号

たとえば、

繊細な筆で草木を描く日本的な図案には、

自然への畏敬が宿っている。

瑞々しい白木の鳥居には、

清冽な祈りが満ちている。

 

ふだん見過ごしている「かたち」、

その意味を問い直すことは

自分自身を見つめ直すこと。

 

先人たちの

どのような思いが、叡智が

「かたち」に込められているのか。

 

日本の「こころ」を探るべく、

いまあらためて

「かたち」を見つめたい。

 

 

『代々木』は、明治神宮・明治神宮崇敬会が発行する季刊誌です。

我が国の美しい伝統精神を未来に伝えるため、昭和35年より刊行をつづけております。

明治神宮崇敬会の皆様にお送りしております。

 

[明治神宮崇敬会のお申込み]

インタビュー「日本のかたちにこめられたもの」
インタビュー「日本のかたちにこめられたもの」

隈研吾(建築家)

人と自然と技術との新しい関係を切り拓く建築を提案し、世界から注目を集めている隈研吾先生にお話を伺いました。

 

環境思想が息づく日本

― 先生が設計されたサントリー美術館は最先端技術と古きよき伝統が調和していて、本当に心が鎮(しず)まる空間ですね。

 日本の伝統的な技術は、非常に合理的です。そして、その裏には「物を大事にする」という環境思想が息づいている。これが今の時代にすごくフィットしていると思うんですね。

 

たとえば「スシ」に代表される日本食が世界で人気ですが、それはおいしいというだけではなくて、材料を大事にするとか、身体にいいとか、環境思想が奥にあるから評価されているのだと思います。

 

実はデザインにはもっと深い環境思想があって、たとえば地球の温暖化といったものに対する解決も日本のデザインの中にあるかもしれない。それをここ十年くらい、世界の人々が気づき始めてきています。

 

今回、サントリー美術館で採用した無双(むそう)格子(こうし)は、日本の伝統的な技術の一つで、光や風をその時々の状況に応じて調節できるものです。空調機で無闇に冷やしたり暖めたりするのは、そもそも環境への恩恵の念が欠けた技術です。絶えず変わる気候に合わせる、それが日本の智恵です。

 

※インタビュー抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、崇敬会にご入会下さい

 [崇敬会入会はこちら]

 

隈 研吾(くま・けんご)

昭和29年生まれ。東京大学工学部大学院終了。コロンビア大学客員研究員などを経て、現在、隈研吾建築都市設計事務所代表。慶應義塾大学教授。著書に『負ける建築』『新・建築入門』『10宅論』『建築的欲望の終焉』等。

インタビュー「真心が響くかたち」
インタビュー「真心が響くかたち」

小笠原清忠(弓馬術礼法小笠原教場三十一世)

鎌倉時代から八百有余年、礼法・弓術・弓馬術の道を一子相伝で守り続ける「小笠原流」。

三十一世宗家である小笠原清忠先生に、日本の「かたち」と「こころ」についてお伺いしました。

 

調和ということ

― 先生は、礼法において「調和」の大切さを説いていらっしゃいますね。

 

小笠原 日本には四季があります。春夏秋冬、それぞれ特色ある季節が、人々の暮らしを彩り、心の豊かさを育んできました。初夏には更衣(こうい)が行われ、住まいの装いも夏向きにかわります。自然の環境に自らを調和させてきた日本人は、立ち居振舞においても周囲との調和を大切にします。その場に一番ふさわしい動きは、見ていて美しいものです。

 

まず、立ち居振舞には無駄がなく、効率的であることが要求されます。背中を丸めてお辞儀をするということは、身体を丸めたり伸ばしたりする無駄な動きが多い。だから、美しくない。

 

たとえば、床の間の生け花です。すべての無駄を捨て去ったところに、誰にも通ずる大自然の美の象徴がある。その花自体の心をも生かし、場のかなめとなっている。まさに、日本の美意識の特徴です

 

※インタビュー抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、崇敬会にご入会下さい

 [崇敬会入会はこちら]

 

小笠原 清忠(おがさわら・きよただ)

昭和18年生まれ。慶應義塾大学卒。社会福祉・医療事業団勤務。平成6年、三十一世宗家を襲名。各地の神社で「大的式」「流鏑馬」「蟇目の儀」などの歩射行事を奉納。著書に『小笠原流礼法入門』等。

「日本美術ブーム」の牽引車 伊藤若冲「動植綵絵」のこと
「日本美術ブーム」の牽引車 伊藤若冲「動植綵絵」のこと

(前略)

こんな「日本美術ブーム」の最大の牽引車になっているのは、アメリカのプライスコレクションの中核を成してもいる江戸時代の画家、伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)である。ほんの十年ほど前まで、一般的な知名度はほとんどなかった。高校の日本史の教科書にも、まったく名前は載っていなかった。もちろん、日本美術史の専門家にとっては周知の存在だったが。

 

そんな若冲による、衆目の一致する最大の遺産は、宮内庁三の丸尚蔵館蔵「動植綵絵」三十幅。もともとは、釈迦三尊像とともに、計三十三幅の壮大な「仏画」として京都の相国寺にあったもの。若冲は、四十代の約十年を費やしてこの絵を描き、自らと亡き家族の永代供養を条件に寄進した。

 

しかし、明治の廃仏毀釈により、相国寺は経済的に困窮。明治二十二年(一九八九)、相国寺は「釈迦三尊像」を除く三十幅を皇室に献上し、一万円の下賜金を得た。その下賜金によって、失いつつあった寺地を買い戻し、疲弊した寺の再興がはかられたという。もし、三十幅が皇室に献上されることがなかったなら、いまのように良好な保存状態は保てなかっただろうし、ことによっては、分割して売却されていたかもしれない。ともかく「動植綵絵」の保存にとって、この窮余の一策は、僥倖だった。はたして、明治天皇は、この絵をご覧になることがあったのだろうか?

(後略)

 

※インタビュー抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、崇敬会にご入会下さい

 [崇敬会入会はこちら]

 

山下 裕二(やました・ゆうじ)

昭和三十三年、広島県生まれ。東京大学大学院修了。室町時代の水墨画を起点として、その研究領域は多岐にわたる。主な著書に『室町絵画の残像』『岡本太郎宣言』『京都、オトナの修学旅行』『日本美術の二○世紀』、『日本美術応援団』(赤瀬川原平と共著)、『日本美術の発見者たち』(矢島新・辻惟雄と共著)、『岡本太郎が撮った日本』(岡本敏子と共編)。