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【平成31年・令和元年】

春号

『代々木』は、明治神宮・明治神宮崇敬会が発行する季刊誌です。

我が国の美しい伝統精神を未来に伝えるため、昭和35年より刊行をつづけております。

明治神宮崇敬会の皆様にお送りしております。

 

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皇位継承に伴う儀式と祭典 御譲位の儀から即位礼・大嘗祭まで
皇位継承に伴う儀式と祭典 御譲位の儀から即位礼・大嘗祭まで

聖徳記念絵画館壁画 『即位礼』

まもなく、第125代の今上陛下(85歳)が4月30日で退かれ、翌5月1日から皇太子殿下(59歳)が新天皇の地位に即(つ)かれます。

このような「譲位」による御代替りは、約200年ぶりのことです。それに伴って、どんなことがどのように行われるのでしょうか。すでに政府と宮内庁では、基本的な日程と方針を内定し公表しています。

しかしながら、その来歴と意義は、まだ十分に説明されていないように思われますので、この機会に、その要点を簡略に説明させていただきます。

 

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京都産業大学名誉教授 所 功(ところ・いさお)

明治神宮と私
明治神宮と私

今井 敬

天皇陛下とちょうど四つ違います。

小さい頃は、母が枕元で古事記を読んでくれました。『子供版・古事記』です。イザナギノミコトがイザナミノミコトに会いに行って、たいへんなものを見てしまって、左目を洗ったらアマテラスオオミカミさまが、・・・・・・だいたいこの辺、いつも同じところで眠っちゃうの(笑)。古事記を知っている子供、今は少ないんじゃないかな。

昭憲皇太后の御歌は「金剛石」という歌になっていて、教科書で習いました。学校には奉安殿があって、そこから校長が教育勅語を出してきて読みましたね。家にも大きな神棚があって、父は朝晩手を合わせていましたよ。当時は鎌倉に住んでいて鶴岡八幡宮に灯籠を寄付したりしていました。東京に移るとすぐに、明治神宮に連れていかれました。はっきりは覚えていないんですけれどもね、真夜中でしたよ。周りはみんな大人で、僕は下を向いていました。確か、砂利でした。明治神宮が空襲で焼ける前の社殿にお参りしました。昭和10年か11年、そのころの話です。

その後は、僕が子供を連れて、その子供が自分の子供、私からいうと孫を連れてきて、明治神宮にお参りしています。七五三もさせていただきましたし。そういうご縁はありますね。

 

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今井 敬(いまい・たかし)

昭和4年12月23日、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業後、昭和27年、富士製鐵(現・新日鐵住金(3月末まで)の前身)に入社。現在、日本製鉄名誉会長。第9代経済団体連合会長を務めた。平成8年、明治神宮総代、同19年には責任役員となる。政府の「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」座長、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」座長も努めた。平成30年、桐花大綬章受章。

「資料に見る明治神宮とその時代」
「資料に見る明治神宮とその時代」

第15回『新穀感謝祭関係書類綴』

〝豊(とよ)の秋〟を祝うと共に自然の恩恵に感謝し、収穫物の一部を神前にお供えする「新嘗祭」は、日本の歴史のなかで古くから特別な祭事として重んじられてきました。

この新嘗祭(11月23日)に合わせ、毎年、明治神宮の廻廊には、全国各地の生産者より、穀物・野菜・果実・水産物等、およそ1200点を超える供進品が奉納されています。

この奉納は、昭和10年に内閣調査局の吉田茂長官の発議を端緒に、時の齋藤實元総理大臣や帝国農会の酒井忠正会長のほか、官民の賛同者らにより一年の収穫を感謝する「新穀感謝祭」の実施が企図されたものです。

 

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聖蹟を歩く 第33回 明治14年北海道・秋田・山形巡幸(7)
聖蹟を歩く 第33回 明治14年北海道・秋田・山形巡幸(7)

(盛岡市)「見馴松」を讃える短歌が刻まれた石碑の裏面には、命名の由来を記した「見馴松記」が刻まれている

盛岡行在所

明治14年(1881)の巡幸では、明治9年に続いて、再び菊池金吾宅が盛岡行在所(あんざいしょ)と定められました。明治天皇のご滞在は、8月19日から21日の期間です。

天皇は、金吾宅の松の大樹を記憶に留めておられました。変わらぬ緑を湛(たた)える松を親しくご覧になる天皇のお姿に接し、金吾が松のご命名を願い出たところ、松は「見馴松(みなれのまつ)」と名づけられました。天皇の命により、巡幸に随行していた侍従の西四辻公業(にしよつつじきみなり)は松を称えた短歌を詠み、一等編修官の川田剛(たけし)は「見馴松記」を作り、翌日には、早くもそれらが菊池家に下賜されています。

短歌と「見馴松記」を刻んだ石碑は、今も菊池宅跡(杜陵(とりょう)老人福祉センター庭園)に遺されています(写真)。天皇に提供された井戸水にちなむ「御膳水記(ごぜんすいき)」碑も建てられました。

明治15年4月、天皇ご滞在への感謝を奏上するため、金吾が上京して宮内省に参上したところ、「特旨」により一対の銅製の花瓶が宮内卿より下賜されました。そこで、金吾は恩賜の光栄を慶賀するため、巡幸の関係者を「紅葉館(こうようかん)」に招いて歓待しました(『盛岡市奉迎録』)。「紅葉館」は、前年に創業した会員制の高級料亭で、昭和20年の東京大空襲で焼失するまで、東京タワーの建つ位置にありました(池野藤兵衛『料亭 東京芝・紅葉館』)。

 

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打越 孝明(うちこし・たかあき)

昭和35年、茨城県水戸市生まれ。早大大学院に学び、同大学助手や大倉精神文化研究所専任研究員などを経て、現在明治神宮国際神道文化研究所主任研究員および早大非常勤講師を務める。著書に『絵画と聖蹟でたどる明治天皇のご生涯』、共編著に『日本主義的学生思想運動資料集成Ⅰ・Ⅱ』や『大倉邦彦の『感想』―魂を刻んだ随想録―』、論文に「明治天皇崩御と御製 上・下」(『復刊明治聖徳記念学会紀要』25・26)などがある。