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【令和4年】

春号

 『代々木』は、明治神宮・明治神宮崇敬会が発行する季刊誌です。我が国の美しい伝統精神を未来に伝えるため、昭和35年より刊行をつづけております。明治神宮崇敬会の皆様にお送りしております。

 [明治神宮崇敬会のお申込み]

 

 

・ 昭憲皇太后基金創設110年――大塚義治日本赤十字社社長に聴く

 

・ 明治神宮と私 鈴木銀三郎(千駄ヶ谷まちづくり協議会代表幹事)

         山本昭(千駄ヶ谷地区町会連合会会長)

 

・Mの森連続フォーラム MACHI×MIRAI

 

[連載]聖蹟を歩く 第45回 打越孝明(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)

 

 

 

・ 昭憲皇太后基金創設110年――大塚義治日本赤十字社社長に聴く
・ 昭憲皇太后基金創設110年――大塚義治日本赤十字社社長に聴く

――これまでの100回の配分は、どのようなことに活かされ、各国からどう受け止められているのでしょうか。

 

大塚 100回目となる今年度(令和3年度)は、16カ国の赤十字・赤新月社に対して総額約5、591万円(475、997スイスフラン)が配分されます。同基金の配分額は1921(大正10)年の第1回から今回(第100回)までで累計17億円以上、配分先は170の国と地域にのぼります。

 基金の配分先事業は時代により変化が見られます。当初は欧州各国の結核対策事業が中心でしたが、1950年代以降は、西欧諸国の統治下から独立したアジアや中東諸国への支援が目立ち始めます。1963年にはアジアアフリカなどの途上国支援に重点を置く方針が決定しました(多くは医療機器や救急車など物品購入に活用)。

 現在は、災害対策、青少年活動、救急法、社会福祉、人材育成、住民教育など幅広い人道支援事業に使用されています。

 昭憲皇太后基金は、国際赤十字・赤新月運動で現存する最も古い基金ですが、100年という歳月を経て、現在も、主に発展途上にある各赤十字・赤新月社の活動を支援する貴重な資金源となっています。時代を先取りした着想とその広範な実績には、世界から率先的な深い敬意と謝意が寄せられており、私は、そのことが日本赤十字社の国際的な評価にもつながっているのではないかと考えます。

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]

 

・ 明治神宮と私 鈴木銀三郎(千駄ヶ谷まちづくり協議会代表幹事)、山本昭(千駄ヶ谷地区町会連合会会長)
・ 明治神宮と私 鈴木銀三郎(千駄ヶ谷まちづくり協議会代表幹事)、山本昭(千駄ヶ谷地区町会連合会会長)

馬車道や大八車が通る風景が昭和のオリンピックで大変貌

 

山本 戦争でこの辺りが焼けた頃、私はここにいなかったのですが、焼けた後にこちらに移り住んだ時、ビルがないから自宅から駅まで、ホームなんかも見えました。いま、駅前にある代々木病院、あの辺りに蔵がありましたね。

 当時はドラム缶のいわゆる五右衛門風呂だったんですが、レンガを組んで下から火を燃やして、井戸水から沸かしていました。恥ずかしいとは思わなかったね。冷蔵庫もないのでスイカを吊るして井戸水で冷やしていました。その頃が懐かしいですね。街が戦争で焼けた後も、そういう風景が残っていましたが、それもオリンピックまででした。

 

――明治神宮も昭和20年の空襲で社殿が焼けてしまいましたが、33年に復興しました。鈴木さんはお木曳に参加されたのですよね。

 

鈴木 そう、言われて思い出しましたが、明治神宮御社殿復興のお木曳の行事がありましたね。父と一緒に参加しました。子供ながらに緊張していました。

皇族がいらっしゃると・・・

 

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]

 

 

 

・Mの森連続フォーラム MACHI×MIRAI
・Mの森連続フォーラム MACHI×MIRAI

100年の森で未来を語る

 鎮座百年祭を記念したシンポジウム「Mの森 連続フォーラム~100年の森で未来を語る~第三章」が、令和3年11月27日(土)・28日(日)、明治神宮参集殿で開催された。

 この第三章は、昨年7月より開始した連続フォーラム(計7回)の最終章で、「MACHI×MIRAI」をテーマに、鎮守の森で人と街の未来を考える2つのプログラムが展開。当日は、定員を半分以下に減らし、新型コロナウイルス 感染症対策を実施の上、2日間で約200名が参加した。

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]

・ [連載]聖蹟を歩く 第45回 打越孝明(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)
・ [連載]聖蹟を歩く 第45回 打越孝明(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)

■院内鉱山に行幸

 

 明治14年(1881)9月20日、東京を発ってから53日目、天皇は岩崎を経て、湯沢行在所(あんざいしょ)に向け、旧羽州(うしゅう)街道を南下されています。今の秋田県湯沢市です。

 天皇がご滞在になった岩崎学校跡である高橋家には、庭に「明治天皇聖蹟碑」があり、湯沢市役所の駐車場には、「明治天皇駐蹕之所(ちゅうひつのところ)」碑が遺されています。当地に置かれていた雄勝郡(おがちぐん)役所の建物が天皇ご宿泊の湯沢行在所となりました。ご滞在に際し花火が打ち上げられ、天皇は行在所において地元産の絹織物・漆器・温飩(うんどん)をご覧になりました。行在所の建物は、八幡神社の社殿として移設され、現存しています。

 21日、天皇は須川を経て、下院内(しもいんない)行在所にご到着になると、院内鉱山に行幸し、鉱石採掘のありさまを視察されました。

 東北中央自動車道の須川インターチェンジを東側に降りると・・・

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]