御祭神関係

Q1

明治天皇さまはあんパンがお好きだったのですか?

A

あんパンを食べたことがない日本人は多分だれ一人としていないでしょう。それほどまでにあんパンは日本人にとって親しみのある食べものです。

パンは今でこそ当たり前のように食べていますが、明治初期パン食を普及することは大変な努力があったのです。なぜかというとパンは16世紀にすでにポルトガル人によって日本に伝わりましたが、当時の日本人にはパンはお米ほどおいしくなかったのか江戸時代になっても一般庶民が食べたという記録はほとんど出てこないのです。明治になって西欧文化をどしどし取り入れるようになったのですが、それでもパンは当初庶民にはやはり好まれなかったようです。

日本人で最初のパン屋を創設した木村安兵衛(現在の木村屋總本舗の創始者、明治2年「文英堂」の名で創業)はなんとかパンを普及したいと思い、日本人の味覚にあったパンはないかと考えました。そして6年の歳月を費やして発明したのが「あんパン」でした。西欧のパンと日本の餡をミックスさせた文明開化にふさわしいこのあんパンは、まだ酵母の正体が何であるかわからない当時でありながら米と糀による酒種酵母を発明してつくられたのでした。これを東京で売り出したところ大評判となり、そして木村安兵衛の親友である山岡鉄舟※1がこのあんパンをぜひ明治天皇さまに食べていただこうと考えました。なぜかというと当時宮中に出入りする御用商は、歴史のある老舗に限られていたのです。まして西洋渡来の新興食であるパンなど宮中にはいる余地はまったくありませんでした。

明治8年(1875)4月4日、お花見を兼ね、水戸家の下屋敷(現在の墨田公園)に御臨幸※2された折、お菓子として出されたあんパン(桜あんパン)に明治天皇ことのほかお気に召され、また皇后陛下も大いにお気に召し、両陛下から「引き続き納めるように」とお言葉を賜ったのです。こうして宮中御用商となったことがパン食を普及するきっかけとなり、あんパンは一段と庶民に広まりました。

※1山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)     幕末・明治の政治家・剣客。千葉周作に剣を学ぶ。戊辰戦争に勝海舟の使者として静岡に行き西郷隆盛と会見、江戸開城についての勝・西郷会談を開く。維新後新政府に仕え、侍従・宮内少輔などを歴任。

※2臨幸(りんこう)     天子が行幸して、その場所に臨むこと。

Q2

ショートヘアの先駆者は明治天皇さまって本当ですか?

A

「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」明治の時代、近代日本を象徴する一つがヘアースタイルでしょう。日本の長い間つづいた伝統のチョンマゲを廃止して、今のようなヘアースタイルにするのは大変だったようです。

明治以前にも幕末の志士、坂本龍馬や伊藤博文などのようにチョンマゲを切った武士もいましたが、多くの人たちはチョンマゲのままでした。

明治4年8月9日に「脱刀の許可」と共に「散髪の許可」がいっしょに出されましたが、長年親しんできたチョンマゲをあっさりと簡単に切ることは出来なかったようで、ある県ではチョンマゲのままの人に税を課せるなどして、散髪を励行したそうです。そしておもしろいのは当初は男性よりも女性のほうが好んで散髪しました。当時の新聞には「女子の断髪は見るに忍びず」(明治5年3月新聞雑誌)「婦女子の髪は従来通り」(明治5年4月新聞雑誌)などの記事があり、近来婦女子がザンギリ頭になるのは趣意を取り違えていると批判しています。そしてあげくの果てには政府から5年の4月「女子断髪禁止令」が出るほどでした。現代なら男女不平等・男女差別で訴えかねないところです。

さて、明治天皇は近代化を進めるにあたって率先して御自ら実行しなければいけないとお考えになられ、明治6年3月20日断髪なさったそうです。この日いつものようにきれいに御髪(おぐし)を結い上げて、御学問所(天皇または皇太子の修学する所)へ出御(天皇・三后がお出ましになること)された陛下が、そのお帰りにはすっかり散髪・ショートヘアーになさっていたので、お迎えに出ていた女官たちが大いに驚いたと伝えられています。そして陛下の御断髪をきっかけに庶民もこれにならって、われ先に散髪を行うようになり、断髪の普及をつくるきっかけとなりました。

Q3

大祓(おおはらえ)とは何ですか?

A

人が知らず知らずのうちに犯した罪や過ち、心身の穢(けがれ)を祓い清めるための神事を「大祓」といいます。大祓の「大」は「公」の意味で、つまり個人だけの祓いではなく、日本国中の祓いなのです。毎年6月と12月の2回、その月の末日に全国の神社で行われ、6月の大祓を「夏越しの(大)祓」、12月の大祓を「年越しの(大)祓」ともいいます。

大祓の起源を見てみると『古事記』に仲哀天皇が崩御されたとき、「国の大祓」を行った記事が出ています。また平安時代初期の国家の法制書『延喜式』にも、6月と12月の大祓が記されてあり、古くから行われていたことがわかります。

大祓には「形代<かたしろ=人形>」(撫物<なでもの>ともいい、紙を人の形に切り抜いたもの)に、名前と年齢を書き、さらにその形代で身体を撫でて息を吹きかけます。そうすることにより、自分の罪穢を移し、それを海や川などに流し、わが身の代わりに清めてもらいます。

話が少し横道にそれますが、3月3日に行われるひな祭りで「流し雛」の行事がありますが、この「流し雛」はもともと形代が原型で、流し雛の行事自体が大祓と同じ罪穢を祓う神事でした。

また、うっとしい梅雨になると「てるてる坊主」を軒さしに吊るして晴れることを祈りますが、このてるてる坊主も形代が原型です。ちなみに坊主頭をしているのは晴天の祈願をしたのが旅の僧や修験者だったからだそうです。

大祓の話にもどりますが、6月の大祓では神社によって「茅の輪くぐり」が行われます。茅の輪をくぐるとき、「水無月の夏越の祓する人は千歳のいのちのぶといふなり」(拾遺和歌集)という歌を唱えるそうです。茅の輪の起源については、『備後風土記』逸文に蘇民(そみん)と巨旦(こたん)の兄弟がいて、ある時スサノオの神が宿を求めた際、弟の巨旦は泊めさせなかったのですが、兄の蘇民は快く泊めて優遇したのでした。スサノオの神は蘇民の一家に茅の輪を渡し、「もしも疫病が流行したら、その茅の輪を腰につけなさい」といって去りました。何年か後疫病が流行した時、そのとおりに茅の輪をつけたら、疫病から逸れることができた故事に基づきます。

このように古代・中世を通じて行われた大祓ですが、残念なことに応仁の乱によって長い間、大祓の行事が行われなくなってしまったのです。しかしこれをもとのように再興したのが、実は明治天皇さまなのです。

明治4年、明治天皇の思し召しで賢所の前庭にて大祓が行われ、翌5年には全国の神社で行うように布告が出て、以来応仁の乱により400年間も途絶えていた大祓が再興されるようになったのです。

Q4

なぜ、7月20日に「海の日」の祝日が制定されたのですか?

A

平成7年「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正され、平成8年から7月20日の「海の日」は「海の恩恵に感謝し、海洋国家の繁栄を祝う」趣旨により祝日となりました。

ところでなぜ、この日が選ばれたのでしょうか?

明治9年(1876)6月2日、明治天皇さまは東北・北海道御巡幸※1にお出かけになられました。埼玉・茨城・栃木・福島・宮城・岩手・青森の各県を御巡幸されたのち、7月16日青森から御召艦※2に御乗船され、函館を経由して20日横浜へ御帰着されたのでした。『明治天皇紀』によれば、3日間荒波のため動揺はなはだしく、遅れて夜の8時すぎに入港したそうですが、明治天皇さまは終始“端然”としておられ、港で待ち受けていた人々を安心させたそうです。

これを記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年から「海の日」として祝日となったわけです。

またこの時に御乗船された御召艦は、灯台巡視船「明治丸」です。明治6年に英国グラスゴーのネピア造船所に発注して、伊藤博文が「明治丸」と名付けました。8年2月横浜に回航され、その後灯台巡視船として活躍し、明治天皇の御巡幸に際しては東北・北海道御巡幸を初めとして数次にわたって御召艦となりました。

この他小笠原諸島や硫黄島の領有権調査にも活躍し、明治29年に現役を退き、商船学校(東京商船大学の前身)に譲り渡された後は、係留練習船として、以来50余年にわたり5千人以上に及ぶ海の児を育てました。終戦後昭和26年まで米国軍に校舎と共に接収され一時荒廃しましたが、昭和53年5月、我国に現存する唯一の鉄船(現在の船は鋼船)であり、造船技術史上貴重な船として国の重要文化財に指定されました。その後文化庁及び東京商船大学の手により修復が行われ昭和63年1月に完了し、現在同大学に保存されています。一般公開されていますので、ぜひ見に行ってください。

「海の日」を通して「海の恩恵に感謝」する気持ちと、明治天皇を中心に国民が一致協力して世界に雄飛した明治の時代を敬慕し、その精神を偲びながら新しい時代に向けて進んで行きたいものです。

※1巡幸     天皇が各地を回ること。

※2御召艦     天皇・皇后および皇太子の乗用艦。

Q5

地名「習志野」の由来は何ですか?

A

習志野は現在千葉県北西部にある住宅都市の地名です。実はこの「習志野」の名付け親は明治天皇なのです。

この地はもと下総国千葉郡小金原(こがねはら)の一部で大和田(おおわだ)の里と呼ばれ、江戸時代は幕府直轄の牧場の一部でしたが、明治4年牧場が廃止され軍の演習地となりました。

明治6年の4月29日、明治天皇は演習を御覧になられるため、みずから2800名の近衛兵を率いて将兵と共に2日間野営をなされ、将兵の苦労をご体験されたそうです。そしてその演習の中で特に指揮官の指揮ぶりは素晴らしく、指揮官のもとで近衛兵が規律正しく行動した様子を御覧になった明治天皇はことのほかご満足なされました。その時の指揮官をしていたのが篠原國幹(しのはらくにもと)陸軍少将でした。

天保7年(1836)12月5日に薩摩(鹿児島県)に生まれ、少年の頃から藩校造士館に学んで頭角をあらわし、文久3年(1863)に薩英戦争において戦いに加わり、明治元年の戊辰戦争には小銃三番隊長として活躍し、明治2年には鹿児島常備隊の隊長、4年には御親兵の大隊長となり、5年7月には近衛局出仕を兼ね陸軍少将になった人です。

この演習後の5月13日に明治天皇は篠原少将を皇居へお召しになられ、今より後は演習した場所を「習志野原」(「篠原に習え」の意味)としなさいと仰せられ、以来この地は習志野と呼ばれるようになったのです。明治天皇の御製に

夏草も 茂らざりけり もののふの 道おこたらず ならし野の原(明治20年)

があります。この習志野原が明治6年陛下が御統監になられて以来、草が生えないぐらい、もののふたちが、たゆまず演習していることをお詠みになられたお歌です。

この習志野原の演習は外苑聖徳記念絵画館に「習志野之原演習行幸」と題して絵画が展示されています。

もののふ 武勇をもって仕え、戦陣に立つ武人

Q6

11月3日の「文化の日」は、なぜ「明治節」と呼ばれていたのですか?

A

昭和23年7月20日に祝日法が公布され、11月3日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」の趣旨によって祝日「文化の日」となりました。実はこの日は明治天皇の御誕生日にあたり、戦前は明治節と呼ばれていたのです。

はじめに明治の元号について説明します。元号とは年につける称号で、漢の武帝※1(紀元前159~87)の時代に「建元」と号したのにはじまり、日本でもこれに倣い西暦645年に「大化」と号したのが最初でした。しかし中国では中華民国の成立(1912年)とともに元号は途絶え、周辺諸国も諸王朝の滅亡とともに元号が廃止されてしまい、現在、元号が使用されているのは世界で日本だけとなっています。また明治以前までは元号が頻繁に変わっていましたが、たびたび改元されるのは好ましい伝統ではないと、江戸時代の学者たちから意見が出てくるようになりました。

明治維新になり、岩倉具視はこれらの学者の意見を採用して、天皇一代の間は1つの元号にする制、つまり一世一元を制定したのです。そして明治の改元にあたっては学者の松平慶永※2がいくつか選び、それを慶応4年(明治元年)9月7日の夜、宮中賢所※3において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自らくじを引いて御選出されました。そして翌8日の一世一元の詔(みことのり)で「明治」と改元されたのです。

さて、次に本題の明治節について説明します。11月3日は先ほども説明しましたように、明治天皇のお誕生日です。戦前までは天皇誕生日は「天長節」※4と呼ばれていました。ですから戦前も今と同じように祝祭日として天長節(天皇誕生日)はお祝いされていたのです。ところが明治45年7月30日、明治天皇が崩御※5され、大正天皇が践祚※6されますと、天長節は大正天皇のお誕生日の日にあらためられて、11月3日は普通の日になってしまったのです。しかし国民から、明治天皇の御偉業を永遠に伝えていくためにも11月3日を祝日にしたいという運動が起きました。崩御直後の新聞には11月3日をどのように保存して行くべきか、アンケートを実施しているほどです(『国民新聞』大正元年8月13日~27日「11月3日を如何に保存すべき乎」)。そして、この中で圧倒的に多かったのが「明治節」の名称でした。

大正14年に11月3日を祝日に制定する請願運動が行われ、2万名の署名が議会に提出されて同年2月23日、満場一致で可決されたのですが、大正天皇の御病気が悪化していたので、貴族院での審議は中断してしまいました。審議が再開されたのは昭和の御代にはいってからで、昭和2年の3月3日、明治天皇の御聖徳を敬仰して「明治節」として制定されたのです。以来、明治節は国家の大切な行事とされ、「四大節」※7の一つに数えられ、また戦後になっても11月3日は「文化の日」としてお祝いされているのです。

今ではもう日本にしか存在しない、しかも1300年以上も続いている元号の伝統と、近代日本の礎をお築きになられた明治天皇の御遺徳を偲ぶ意味でも、11月3日の明治節の精神を永久に子々孫々へ伝えていきたいものです。

※1武帝     前漢第七代皇帝。中央集権を強化し、儒教を採用して思想の統一を計り、漢の最盛期を現出した。即位の年を建元元年といい、年号のはじめとされる。

※2松平慶永     (1828~90)幕末の福井藩主。ペリー来航後、海防・攘夷を主張。徳川慶喜と協力して幕政改革・公武合体を進め藩政改革をおこなった。大政奉還・王政復古にあたっては公議政体派の中心人物として活躍した。

※3賢所     宮中三殿の一。天照大神の御霊代(みたましろ)として神鏡八咫鏡(やたのかがみ)を祀ってある所。

※4天長節     天皇誕生の祝日。明治元年制定。戦後、天皇誕生日と改称。ちなみに皇后誕生日は「地久節」と呼んだ。

※5崩御     天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去をいう語。

※6践祚     皇嗣が天皇の位を受け継ぐこと。先帝の崩御あるいは譲位による。

※7「四大節」     もと祝祭日とされた新年・紀元節(現在の建国記念日)・天長節(天皇誕生日)・明治節(文化の日)の総称。

Q7

「明治」の由来は何ですか?(「大正」「昭和」「平成」の由来は?)

A

明治の由来にはいる前に元号についてご説明いたします。そもそも元号は、漢の武帝の時代の中国に生まれて、朝鮮、日本などへ渡ってきた年の数えかたです。日本で最初に用いたのは大化の改新で有名な「大化(たいか)」(六四五年)の元号ですが、中国や朝鮮ではすでになくなってしまい、日本だけがこの伝統を守っています。

「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応4年(明治元年)9月7日の夜、宮中賢所(かしこどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。

翌8日の一世一元(天皇御一代に一つの元号とする制)の詔で「明治」と改元されたのです。

「明治」の意味は聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる、と解されています。

一世一元     明治以前までは年号が頻繁に変わっていましが、大阪の学者中井竹山が『草茅危言』(そうぼうきげん)で初めて頻繁に改元する従来の弊風を改めることを主張しました。また水戸の藤田幽谷の『建元論』にも記されています。幕末には、石原正明や広瀬淡窓も同じ考えを述べており、維新直後、岩倉具視の努力で実現しました。

 

参考に「大正」「昭和」「平成」の出典由来についても書いておきます。

「大正」の出典     『易経』 「大亨は以って正天の道なり」 天が民の言葉を嘉納し、政(まつりごと)が正しく行われる。

「昭和」の出典     『書経』 「百姓昭明、協和万邦」国民の平和と世界の共存繁栄を願ったもの。

「平成」の出典     『史記』 「内平かに外成る」内外、天地とも平和が達成されるとの意味。『書経』 「地平かに天成る」

昭和64年1月7日産経新聞

新元号制定は、元号法(54年成立)に基づき、「元号選定手続き」(同年閣議了承)に沿って進められた。首相の委嘱を受け国文学、中国文学、歴史などの学者が提出した候補名を小渕官房長官と味村法制局長官が整理検討して竹下首相に報告。さらに学識経験者ら国民代表や衆参両院の正副議長らの意見を聞いたうえ、臨時閣議で決めた。

選定は

1.国民の理想としてふさわしい意味を持つ

2.漢字二字

3.書きやすい

4.読みやすい

5.外国を含め過去に元号やおくり名として使われていない

6.俗用されていない

の6つの基準で行われた。

「へいせい」は史記および書経の「内平かに外成る(史記) 地平かに天成る(書経)」からとられた。内外、天地とも平和が達成されるとの意味。

『易経』     五経の一つ。儒家の重要な経典。宇宙の原理・万象の変化を陰陽二元をもって説き、人間道徳も陰陽消長して万物を生成する天道に従うべきだと説く。

『書経』     五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典。

『五経』     中国の古典である経書のうちでも代表的な五つの書物。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。前漢の武帝の時代に、この五書を五経と名づけ、それを専攻する五経博士を置き、儒教を国教化したときに始まる。儒家の基本的教科書であった。

『史記』     二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。

Q8

「バンザイ」はいつから唱えるようになったのですか?

A

「天皇陛下バンザイ!」「日本バンザイ!」「人間バンザイ!」……一見、明治神宮と神道には何の関係もないように見えるのですが、ところがこれが大いに関係あるのです。

 「ばんざい」(万歳)を「広辞苑」で引くと、 

①長い年月。よろずよ。 

②いつまでも生きること。いつまでも栄えること 

③めでたいこと。祝うべきこと。 

④貴人の死を忌んでいう語。 

⑤祝福の意を表すため両手をあげて唱えること。 

⑥転じて、お手上げの状態、すなわち物事に失敗したり、どうにもならない状態になったりすることを  

言う語。

などの6つの意味が出ていますが、古代中国・日本では①から④までの意味で使っていたようです。 そして日本で最初に「萬(万)歳」の記録が出てくるのは『日本書紀』からです。雄略天皇5年2月、天皇が葛城山に狩にお出ましになられた折に「萬歳」の語が初めて出てきますが、当時は「よろづよ」または「よろづとせ」と読まれていたようで、意味としても②と③に近いようです。

 時代が下って『栄花物語』には「けふは ばんぜい(萬歳)」とあり、また即位礼やその他の賀宴で奏される神楽「萬歳楽」は「まんざいらく」と読み、神楽歌・千歳の末歌にも「まんざい(萬歳)、まんざい、まんざいや、よろづよのまんざいや」とあって古代・中世にかけては「ばんぜい」または「まんざい」と呼ばれていたようです。そして近世になっても戦国時代に作られた『日葡辞書』には「萬歳」はやはり「ばんぜい」「まんざい」と発音していました。

 つまり古代・中世・近世を通じて「ばんざい」の呼び方が出てこないのが解ります。では、いつから「バンザイ」の言葉が出てくるのでしょうか?

 実は明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式の慶祝の際に「バンザイ」と称されたのが最初です。近代日本の門出とも言えるこの良き日に、宮城外にて陛下をご奉迎するにあたり、どのような言葉で陛下に対し慶祝の発声をしたらよいか議題が上がったのです。

 なぜかと言うとそれまで日本には一同で慶賀を発声する統一された言葉がなかったからです。ところが西欧においては君主や大統領が通るときに帽子やハンカチを振りながら、「Hurray!(フレー)」と言ったり、式場では「Long・live・the・King!(ロングリヴザキング)」「Long・live・the・Queen!(ロングリヴザクウィーン)」(王バンザイ・女王バンザイの意味)またフランスでは「Hourra・le・France!(ウィララフランス)」(フランス バンザイの意味)と唱えていたんですね。ですから日本でも統一した祝福の言葉を考えようという事になったのです。

 はじめ文部省から「奉賀」という案が出ましたが、続けて発声すると「ピン」とこないのですぐに「ダメ!」となりました。次に臨時編年史編纂掛のほうから「萬歳」の提案が出て、それでいこうとなったのです。しかし「ばんぜい」では「パット」しない。また「まんざい」では漫才みたいで厳粛さがない。

 そこで後に文部大臣・東京帝国大学総長になった外山正一博士の意見で漢音と呉音を交えて「バンザイ」としたらどうかという意見が出て、協議の結果全員一致で賛成となり、いよいよ11日の当日、発案の外山博士が音頭をとって二重橋外において陛下奉迎の際、声高らかに「バンザイ」を発声したのが最初でした。

 

以来「バンザイ」は世界に通用する祝福の言葉となったのです。

Q9

昭憲皇太后基金「ショーケンファンド」って何ですか?

A

一般の人たちは聞き慣れない言葉で、何のことかわからないことと思います。なぜかというと歴史の教科書にはほとんど出てこないのです。ところが日本では知らなくても世界の人々の方がよく知っているのです。

 昭憲皇太后は明治天皇の皇后で、明治神宮の御祭神でもあります。この基金は明治45年(1912)、皇太后がアメリカのワシントンで開かれた第9回赤十字国際会議のさい、国際赤十字に対して贈られた10万円(現在の金額で約3億5千万円)をもとに創設されました。この基金は、ジュネーブに本部がある赤十字国際委員会と赤十字社連盟が共同管理にあたり、創設から10年目の大正10年(1921)から基金の利子を世界各国の赤十字社に配分し、保健衛生事業や災害救護活動などに使われています。この利子の配分は昭和19年を除いて絶えたことがありません。

 実はこのような基金は、ほかにもあったのですが、いずれも運営難に陥り、昭憲皇太后基金が現在、世界唯一の存在なのです。ではなぜ現在も残って利子配分が出来るのでしょうか?

 実は基金が増額されているのです。大正天皇の皇后・貞明皇后や香淳皇后、そして日本赤十字の名誉総裁であらせられます現皇后陛下も基金を下賜、増額されているのです。また明治神宮崇敬会においても会員の寄付や、外務省、それに基金の趣旨に共鳴して下さる個人等の寄付で現在においても増額されつづけています。

 現在この基金は毎年ご命日の4月11日に世界の赤十字社へ援助金の配布を行い、医療と福祉の充実に大きく貢献しています。

Q10

明治天皇さまの御尊影は何歳の時ですか?

A
明治天皇さまの御尊影は何歳の時ですか?

明治天皇の御尊影といえば代表的なのが明治神宮宝物殿にある御肖像画です。質問に対してのお答えですが、明治21年、陛下37歳(数え年)のときの御尊影です。実は撮影されたのではなく、コンテ画で描かれたのでした。

  そのころ明治天皇の公式な御肖像写真がないことで、臣下たちは長いあいだ頭を悩ませていました。当時は諸外国の君主と御肖像を交換することが慣習となっていたのですが、それまで陛下の正式な御尊影は明治5年に撮られた束帯※1姿・直衣※2姿と、翌6年の洋装の軍服姿だけでした。それ以後、陛下は写真嫌いだったので、お写真を撮られたことはなかったそうです。しかし、それからすでに15年が経ち御尊影と実際のお顔との差が大きくなってきて、外国から現在のお写真を頂きたいという要請が多くなってきました。

 宮内大臣より陛下へお写真をお撮りになるように御進言したのですが、写真嫌いの陛下はどうしても御許可をなされませんでした。どうしようか困っていたとき、宮内大臣に就任したばかりの土方久元※3が苦肉の策を考えたのです。

 写真がだめなら写生だったらどうだろうか・・・しかしこれを陛下に言上しても御許可して頂けなかったので、ひそかに拝写するしかないと考えたのです。そしてその写生を依頼したのが、当時印刷局のお雇い外国人だったイタリアのエドアルド・キヨッソーネ(1832~1898)でした。

  キヨッソーネはその話を聞いて大変に感激し、さっそく明治21年1月14日、陛下が芝公園内にある写真弥生社※4に行幸※5の際、奥の部屋に隠れて、陛下の龍顔※6・御姿勢・御談笑されているお姿など、さまざまな角度から詳細にスケッチをしたのでした。しかも写生だけにとどまらず、陛下の御正装を宮内省から借りて身につけ、みずからモデルとなって写真を撮り、それを基にして御肖像画を完成させたのでした。その威容厳然としたお姿に土方大臣おおいに喜び、さっそく陛下にお見せして御許可を請いました。

 しかし陛下は御肖像画を御覧になったとき、無言のままその場では何もおっしゃらなかったそうです。土方大臣は陛下が知らない間に書き描かれたことをお怒りになったのかと思い、不安になりました。しかしたまたまある国から皇族の御真影の贈与の依頼がありましたので、土方大臣はもう一度おそるおそる、陛下にこの御肖像画を贈呈してよろしいか、お伺いしました。

 その時、明治天皇はすぐに親署されたそうです。土方大臣はおおいに喜びました。なぜかというと、親署されたということは、すなわちお許しになられたということだからです。

 以来、このキヨッソーネが描いた御肖像画は全国に下賜されるようになり、明治天皇の御尊影といえば誰もがキヨッソーネの描いた御肖像画を思い描くほどになったのです。

※1束帯(そくたい)     平安時代以降の朝服の名。天皇以下文武百官が朝廷の公事に着用する正服。

※2直衣(のうし)     平安時代以降の天皇・摂家以下公卿の平常服。

※3土方久元

(ひじかた・ひさもと)     天保4年~大正7年(1833~1918)土佐藩士。維新後、江戸府、東京府の判事。後に宮中顧問官、農商務大臣、宮内大臣、枢密顧問官などの要職を歴任。晩年は主として聖徳講話などを行い、教育関係の仕事に尽力した。

※4弥生社(やよいしゃ)     芝公園内にあった警察官武道演武場。この日、明治天皇は警官の柔術、剣術、旗取り、野試合等を御覧になった。

※5行幸(ぎょうこう)     天皇が外出すること。みゆき。

※6龍顔(りゅうがん)     天子の顔。天顔。

Q11

明治天皇さまはどれくらいの身長だったのですか?

A

明治の時代、日本人は欧米人から矮小(たけが低く小さいこと)民族とみられ、当時「五尺(150cm)の大女」という語があったくらいで、男性でも150cmから160cmまでが普通でした。

 そのころ長身といわれた人物に維新の三傑、西郷隆盛や木戸孝允、大久保利通などがいますが、その中でも断然体躯がすぐれて大きかったのが明治天皇だったとされています。

  当時は陛下の身長を測って服を調製するなど許されなかった時代ですので、身長の目測もまちまちで、五尺六寸(168cm)、同七寸(171cm)、同八寸(174cm)、中には六尺(180cm)と誌されたものもあり、外国の新聞には陛下の身長を170cmと記されていたそうです。唯一『明治天皇紀』には測定された記事が出ていて五尺五寸四分(約166.2cm)と記述がありますが、これは御生前ではなく崩御直後に御遺体を計られたものとされています。

 また陛下のお近くでお仕えしていました高倉篤麿の身長が168cmで陛下の鼻のあたりといわれ、多摩丘陵のウサギ狩りに陛下がお立ち寄りになられた富沢家の鴨居の高さが174cmでその下を通られた時ちょっと屈められたという逸話もありますので、170cm以上あったのではないかと想像されます。

  次に体重ですが、陛下を乗せた御料の馬が白く汗をかいたといわれるほどずば抜けた魁偉な御体格であったようで、日清戦争後のころは24貫(90kg)あり、これが通常の体重だったそうで、明治42年には24貫4、5百(約92kg)、そして最も重かった時には26貫(97.5kg)もあり、当時の人の2倍にあたる体重があったそうです。

御料 天皇や貴人の所有・使用などするものに対する尊敬語。

Q12

なぜ、昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?

A

明治天皇さまのお后(きさき)さまなら「皇太后」でなく「皇后」とお呼びするのが正しいのではないかという考え方もございますが、実はこのいきさつについてはたいへん難しい問題があります。

 昭憲さまは嘉永(かえい)3年(1850)4月17日(新暦5月28日)一条忠香(ただか)の三女として御誕生あそばされました。はじめ勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)、寿栄君(すえぎみ)などと呼ばれ、入内(じゅだい)※1後、美子(はるこ)と称されました。明治元年12月28日御入内まもなく皇后の宣下(せんげ)※2があり明治天皇さまのお后となられました。大正3年4月11日に崩御※3されています。同年5月9日に宮内省告示第九号により「昭憲皇太后」のご追号が仰せ出されたのでした。そして大正4年5月1日には明治神宮の御祭神として内務省告示第三十号により祭神「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表されたのです。

ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。

1. 両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって 「天皇皇太后両陛下」とは称さないこと。「皇太后」は天皇の母親の意味であること。 よって明治神宮の御祭神は御夫婦であられるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。

 2. 亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は 「皇后」より下の位になる。だから昭憲さまは生前「皇后」でしたので、 「昭憲皇后」と称するのが正しいことになる。

 では、なぜこのような称号をつけてしまったのでしょうか。

 昭憲さまが崩御されたのは大正3年です。すでに明治天皇は崩御され(明治45年7月30日)、大正天皇が践祚(せんそ)※4されたので皇太后となられたのでした。崩御された時はすでに皇太后であらせらたのですが、当時の宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可※5となったのです。

 はじめにこの上奏の時点で間違いが生じました。そしてそのまま御祭神名も「昭憲皇太后」としてしまったのです。

 このような経緯から明治神宮の御祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、御鎮座寸前の大正9年8月9日(明治神宮の御鎮座は大正9年11月1日)明治神宮奉賛会会長徳川家達(いえさと)より宮内大臣宛へ建議が出されました。

しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。

 その理由として1. 天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。2. すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。 の二点があげられています。

  時代が下って昭和38年12月10日、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり宮内庁へ「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」が神宮より、また崇敬会会長高橋龍太郎より「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」が提出され、続いて昭和42年12月26日に明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」が提出されました。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったそうです。

 御鎮座当時首相であった原敬は「他日、何かの機会及び形式において昭憲皇太后を神功皇后※6檀林皇后※7などの前例によって、一般には昭憲皇后と称し奉りても違法ではないことの趣旨を明らかにしておくことが必要であろう。」と言っています。(『原敬日記』大正9年10月13日)

※1入内(じゅだい)     中宮・皇后・女後などが正式に内裏に参入すること。

※2宣下(せんげ)     天皇の命を伝える公文書を下すこと。

※3崩御(ほうぎょ)     天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去をいう語。

※4践祚(せんそ)     皇嗣が天皇の位を受け継ぐこと。

※5裁可(さいか)     1.君主が臣下に奏する案文を親裁許可すること。2.明治憲法下で、天皇が議会の協賛した法律案及び予算案を親しく裁量して、確定の力を付与した意思表示。その形式として御名を署し、御璽を押印した。勅裁。

※6神功皇后     仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。新羅(しらぎ)を征して凱旋し、応神天皇を筑紫で出産した。

※7檀林皇后     嵯峨天皇の皇后。