ご生母の厳しい躾――中山慶子

 明治天皇は5歳のときに中山邸から御所の若宮御殿にお移りになり、そこでご生母中山慶子から教育を受けられました。習字は有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)が、読書は伏原宣明(ふせはらのぶはる)がそれぞれ師範を勤めておりましたが、日常の稽古は読み書きともにご生母が指導いたしました。

 読書は声に出してお読みになりますが、なにぶんご幼少のことですので勉学に退屈なさるときもありました。そんな時慶子は容赦なく皇子の袖を引っ張って、真正面からジッとにらみつけます。これがたまらなく怖いもので、皇子は気持ちを入れ替えてだまって勉強に励まれました。

 習字にしても、20枚綴りの帳面2冊を書き終えないと昼食にならないので、途中で隙をみては墨をベタベタと塗りたくって澄まし顔をされたこともあったそうです。天皇は後年ご幼少の頃を思い出され、「一位(中山慶子)も、今は年をとってやさしくなったが、若いときにはなかなか厳しい人で、私が与えられた予定の日課を終わらないと、昼になっても食事をさせなかった」と笑みを浮かべながらお話しになったといいます。

 

 手ならひをものうきことに思ひつる

      をさな心をいま悔ゆるかな 

 

というお歌は、当時の様子を回顧なさったものです。

 中山慶子はこのように、皇子の教育に献身的な努力をしました。慶応2年12月25日、孝明天皇が崩御になったとき、慶子は父の忠能(ただやす)に宛てた手紙のなかで、「どうかこれからは国民はもとより、世界中の人々から尊敬される優れた君主となりますように」と、先帝のご遺志を継いで皇位につかれる皇子にかぎりない期待と信頼を寄せたのでした。

 

 

【中山慶子】

ご生母の厳しい躾――中山慶子