



三畳のお化粧間──赤坂仮皇居の皇后
明治6年に皇居が炎上したため、両陛下は赤坂の仮皇居にお移りになりました。仮皇居はたいへん狭く、皇后がお化粧やお髪上げをなさるお部屋は、わずか三畳敷きの間でしたから、鏡台を据えて女官がお髪上げを奉仕すると、後ろがつかえて物にぶつかってしまうほどでした。
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養蚕事業奖励
皇室の養蚕奨励の始まりは明治4年にさかのぼります。
この年3月、皇后は吹上御苑の一部に御養蚕所を設け、群馬県の農家の女性を招き、桑の栽培や、蚕の飼育などをご自身でなさいました。
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この年3月、皇后は吹上御苑の一部に御養蚕所を設け、群馬県の農家の女性を招き、桑の栽培や、蚕の飼育などをご自身でなさいました。

内廷改革はみずからの手で
明治維新は五箇条の御誓文にうたわれたように、旧来の悪い慣習をあらため、天地の公道に基づくことを理想のひとつに掲げていました。この理念によって、明治の初年から政治や経済、外交などの諸分野では、めまぐるしい改革が断行されましたが、宮中奥深くの慣習はいまだ旧態依然としていて、容易に改善することができませんでした。その最大の要因は、女官たちが古い慣例を楯にして、維新政府の政策をかたくなに拒んだためです。
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砲弾の雨の中のお見舞い
これはご成婚前のお話ですが、明治元年の早々戊辰戦争が起こり、京都で新政府軍と旧幕府軍が激しい戦いをくりひろげました。御所の御門は固く閉ざされ、それぞれ警護の武士が詰めておりましたが、正月3日、戦いはにわかに激しくなり、砲弾の飛び交う凄まじい音が、当時の皇后のお住まいであった一條家邸内の女御館にも響きわたりました。
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皇后冊立――簡素なご婚儀
ご容姿が美しく、お振る舞いが上品でお淑やかであるばかりでなく、人一倍熱心に学問に励まれる姫君のご様子は、日に日に周囲の評判となりましたが、不幸にも文久3年(1863)11月、14歳の時に父君を失い、その後父のごとく慕われていた兄・実良も慶応4年(明治元)4月に亡くなり、一條家は深い悲しみに暮れました。
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稲穂の実り
昭憲皇太后は小さい頃から聡明でいらっしゃいましたが、どちらかと言えばやんちゃで、決しておとなしいほうではなかったそうです。
学問の先生は貫名海雲という人で、皇后は7歳の時から、姉君たちと机を並べて漢学の勉強を始められました。
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学問の先生は貫名海雲という人で、皇后は7歳の時から、姉君たちと机を並べて漢学の勉強を始められました。

父君の訓戒
一條家に仕えた松田はるゑは、昭憲皇太后ご幼少のころを次のように語っています。一條家の躾の一端がうかがわれます。
陛下はお小さいとき魚がお嫌いで、京の水菜の漬けたものや浅草海苔など、あっさりしたものがお好きでした。
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陛下はお小さいとき魚がお嫌いで、京の水菜の漬けたものや浅草海苔など、あっさりしたものがお好きでした。

ご降誕
昭憲皇太后は、嘉永3年(1850)4月17日(太陽暦5月28日)、従一位左大臣一條忠香の第三女として京都でご誕生になりました。はじめの御名は勝子といい、富貴君と称されましたが、後に壽栄君と改められ、入内にあたり明治天皇より美子と賜りました。
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