はじめの百年。これからの千年。まごころを継ぐ 永遠の杜をめざして はじめの百年。これからの千年。まごころを継ぐ 永遠の杜をめざして

ご逸話であおぐ 明治天皇さま 昭憲皇太后さま 令和四年(2022)明治天皇百十年祭 令和六年(2024)昭憲皇太后百十年祭 令和4年7月30日、明治天皇百十年祭を迎えました。明治45年に崩御されてから110年。そして2年後の令和6年4月11日は、昭憲皇太后百十年祭です。両御祭神のご逸話(エピソード)を掲載します。聖徳を仰ぐ端緒となることを願います。
ご逸話であおぐ 明治天皇さま 昭憲皇太后さま 令和四年(2022)明治天皇百十年祭 令和六年(2024)昭憲皇太后百十年祭 本年7月30日、明治天皇百十年祭を迎えます。明治45年に崩御されてから110年。そして2年後の令和6年4月11日は、昭憲皇太后百十年祭です。両御祭神のご逸話(エピソード)を掲載します。聖徳を仰ぐ端緒となることを願います。
女子師範学校へ行啓
女子師範学校へ行啓
明治8年2月、かねて女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が設立されることをお聞きになっていた皇后は、とくにお手許金5000円を下賜されました。
同年11月29日の開校式には、内務卿大久保利通、宮内大輔萬里小路博房以下を従えてご出席になり、次の祝詞を賜りました。
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唱歌「金剛石」
唱歌「金剛石」
華族女学校(現在の学習院)は赤坂仮皇居に近接していましたので、皇后はしばしばお庭伝いに行啓され、授業のさまを視察されては生徒にお菓子を賜わり、あるいは皇室が編纂した『幼学綱要』『婦女鑑』などの徳育書を下賜されたこともありました。
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華族女学校の創設
華族女学校の創設
明治10年、皇族や華族の子弟のための教育機関として、神田錦町に学習院が創設されました。同じ敷地内に男子部と女子部があり、開校当時生徒数は男子が200名に近かったのに対し、女子はわずかに59名でした。
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十二徳の御歌
十二徳の御歌
上皇陛下が天皇であられた平成6年6月にアメリカ合衆国を訪問された際、大統領主催の歓迎式典で「貴国に対し、わが国が持った関心の深さは、ベンジャミン・フランクリンの十二徳目を題として、私の曾祖父・明治天皇の皇后、昭憲皇太后によって和歌が詠まれていることからもうかがえます」という印象深いお言葉を残されました。
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たぐいないご文藻──お歌に寄せる御心
たぐいないご文藻──お歌に寄せる御心
皇后の秀でたご天分は、とくにお歌のなかに遺憾なく発揮されました。3万首ものお歌を残され、今日でも明治天皇とともに古今たぐいない歌聖と仰がれています。
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三畳のお化粧間──赤坂仮皇居の皇后
三畳のお化粧間──赤坂仮皇居の皇后
明治6年に皇居が炎上したため、両陛下は赤坂の仮皇居にお移りになりました。仮皇居はたいへん狭く、皇后がお化粧やお髪上げをなさるお部屋は、わずか三畳敷きの間でしたから、鏡台を据えて女官がお髪上げを奉仕すると、後ろがつかえて物にぶつかってしまうほどでした。
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養蚕事業奖励
養蚕事業奖励
皇室の養蚕奨励の始まりは明治4年にさかのぼります。
この年3月、皇后は吹上御苑の一部に御養蚕所を設け、群馬県の農家の女性を招き、桑の栽培や、蚕の飼育などをご自身でなさいました。
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内廷改革はみずからの手で
内廷改革はみずからの手で
明治維新は五箇条の御誓文にうたわれたように、旧来の悪い慣習をあらため、天地の公道に基づくことを理想のひとつに掲げていました。この理念によって、明治の初年から政治や経済、外交などの諸分野では、めまぐるしい改革が断行されましたが、宮中奥深くの慣習はいまだ旧態依然としていて、容易に改善することができませんでした。その最大の要因は、女官たちが古い慣例を楯にして、維新政府の政策をかたくなに拒んだためです。
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砲弾の雨の中のお見舞い
砲弾の雨の中のお見舞い
これはご成婚前のお話ですが、明治元年の早々戊辰戦争が起こり、京都で新政府軍と旧幕府軍が激しい戦いをくりひろげました。御所の御門は固く閉ざされ、それぞれ警護の武士が詰めておりましたが、正月3日、戦いはにわかに激しくなり、砲弾の飛び交う凄まじい音が、当時の皇后のお住まいであった一條家邸内の女御館にも響きわたりました。
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皇后冊立――簡素なご婚儀
皇后冊立――簡素なご婚儀
ご容姿が美しく、お振る舞いが上品でお淑やかであるばかりでなく、人一倍熱心に学問に励まれる姫君のご様子は、日に日に周囲の評判となりましたが、不幸にも文久3年(1863)11月、14歳の時に父君を失い、その後父のごとく慕われていた兄・実良も慶応4年(明治元)4月に亡くなり、一條家は深い悲しみに暮れました。
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稲穂の実り
稲穂の実り
昭憲皇太后は小さい頃から聡明でいらっしゃいましたが、どちらかと言えばやんちゃで、決しておとなしいほうではなかったそうです。
学問の先生は貫名海雲という人で、皇后は7歳の時から、姉君たちと机を並べて漢学の勉強を始められました。
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父君の訓戒
父君の訓戒
一條家に仕えた松田はるゑは、昭憲皇太后ご幼少のころを次のように語っています。一條家の躾の一端がうかがわれます。
陛下はお小さいとき魚がお嫌いで、京の水菜の漬けたものや浅草海苔など、あっさりしたものがお好きでした。
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ご降誕
ご降誕
昭憲皇太后は、嘉永3年(1850)4月17日(太陽暦5月28日)、従一位左大臣一條忠香の第三女として京都でご誕生になりました。はじめの御名は勝子といい、富貴君と称されましたが、後に壽栄君と改められ、入内にあたり明治天皇より美子と賜りました。
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