女子服制についての思召(おぼしめ)し

 

  新衣たちゐになれずともすれば

         かざりの玉のこぼれけるかな

 

 明治10年代の後半から20年代初めにかけて、わが国では欧化主義の風潮がにわかに高まり、鹿鳴館(ろくめいかん)に集う婦人たちはこぞって洋服を纏(まと)うようになりました。宮中でも宮廷服として洋服が採用され、皇后は明治19年7月30日、初めて洋服を着用されて華族女学校にお出ましになったほか、外国人との謁見(えっけん)にも洋服が用いられるようになりました。

 ご容姿がお美しく気品に満ちた皇后が洋服をお召しになったことは、近代化を推し進める明治日本において象徴的な出来事でした。

 皇后は20年1月17日、「婦女服制の事に付て皇后陛下の思召書」をお出しになりました。

 

 古代より一般に、女子は紅袴を身につけていたが、南北朝以降、裳(も=古代の女性が腰から下にまとった衣)が用いられなくなり、衣を長くして両足をおおうようになり、江戸時代以降は次第に帯の幅が広くなり、今日の和装が出来上がりました。しかし、そもそも衣があって裳がないのは不自然で、まして上古のように立礼(りゅうれい)を用いるようになった今日、服制も本来のものに戻すべきです。洋服は衣と裳を用いていて、わが国上古の旧制に通じ、立礼にもかない、身体の動きも自由ですから、その裁縫に倣(なら)おうとするのは当然のことです。しかし、その改良について最も注意しなければならないのは、なるべく国産品を用いるように努めることです。国産を用いれば、製造の改良や技術の進歩を導き、商売にも益を与えることになるでしょう。新しい事を取り入れるにあたり、無益な費を避けることは当然ですが、人々が互いに分に応じた服装を心がければ、その目的を達することが出来るでしょう。

 

 この思召しにあるように、皇后は日本の伝統的な婦人の服装があまりにも華美に流れ、しかも身動きが不自由であることを遺憾に思われ、より簡素で動きやすい洋服を採用されたのでした。

 そればかりでなく、洋服採用のご奨励は毛織物などの洋服地の製産業や裁縫業を、欧米並みに発達させたいというご心意でしたが、女子の洋服着用が次第に広まる一方で、舶来品を尊ぶ風潮はなかなか改善されませんでした。

 皇后はこれを残念に思われ、27年3月9日の大婚25周年の御祝典にあたり、宮中奉仕の諸官に京都の川島織物会社製の御服地を下賜され、香川皇后宮大夫を通じてあらためて国産品の奨励をさとされました。  

 

 皇后陛下は先年賜った思召書のご趣意をよく理解して、服地や付属品にできるだけ国産を用いるようにというお気持ちであり、質素実用を旨とし流行に走ることのないよう、望んでおられる。

 

 このような昭憲皇太后の国産品を奨励する思し召しは、のちに貞明皇后(大正天皇の皇后)にも継承され、現在の皇室でも大切に守り伝えられています。

 

 

【洋装の昭憲皇太后(鈴木真一・丸木利陽撮影)】

女子服制についての思召(おぼしめ)し