昭憲皇太后崩御

大正3年3月25日、空もよく晴れ、まことにうららかな日和(ひより)のことでした。この日は、明治天皇崩御のため延期になっていた泰宮聡子(やすのみや としこ)内親王のご婚約が決定したおめでたい日で、その報告の使いとして参邸した園基祥(その もとさち)伯爵にご対面になった昭憲皇太后は、ご機嫌うるわしく喜びもひとしおのご様子でした。

翌26日は、東伏見宮(ひがしふしみのみや)両殿下のお見舞いを受けられてなごやかにご歓談になり、両殿下のお帰りののち昼食のテーブルに着かれました。いつもよりゆっくりとお食事を召し上がり、おそばの女官が消化剤をさしあげようとしたところ、急に皇太后が苦しそうな表情をされたのです。ただならぬご様子に女官が急いで侍医を呼び、同時に皇太后を床にお運びしたのですが、当時の洋服は首のまわりから手の先まで体にぴったりとあわせたもので、さらに鯨の骨のたくさん入った頑丈なコルセットを着けられていたため、女官たち大勢が布地を少しずつ持ち上げながら鋏(はさみ)を差し込み、小さく切り取ってようやくゆるくしてさしあげました。診察の結果は狭心症で、翌日より東京からかけつけた青山・三浦両博士と侍医たちが、毎日交代で拝診にあたり、女官も昼夜交代で看護につくこととなりました。

ご症状は予断を許さないながらもしばらくご安静が続き、おそばに仕えるものも一縷(いちる)の望みを抱いたのでした。そして4月7日、あたたかい陽気で、うららかな春の陽ざしをいっぱいあびてお目覚めになった皇太后は、

「今日は大変気分がよいから、すこしお掃除をしてもらいたい」

と指示されました。そこで、お顔にガーゼをおかけし、室内を濡れた布でふき、縁側などは障子をたてて掃きだして、盆栽なども新しいものと取り替えました。すると、

「ああ、たいへんさっぱりしました。皆にもいろいろ心配をかけましたが、今日は気分もいいし、そのうちにはきっとよくなると思います」

とおっしゃって、伊勢の神宮へのお礼参りに使者をたてることと、お付きの者全員に、慰労のお気持ちをこめてお寿司やお菓子をふるまうことを指示されたのでした。そして側近の者ひとりひとりにお言葉をかけ、ねぎらわれたのです。

しかし、その翌々日未明、にわかにご容体が急変し、二回目の発作をおこされました。侍医たちの必死の人工呼吸もむなしく、ついに呼吸はお戻りになりませんでした。皇太后の崩御は、青山御所へのお還(かえ)りの後、4月11日と公式に発表されました。

5月9日、坤徳(こんとく=皇后の徳のこと)を仰いで「昭憲皇太后」と御追号され、24日、代々木練兵場(現在の代々木公園)で御大喪(ごたいそう)の儀が執り行われ、26日には京都伏見桃山東陵に明治天皇陵と相並び奉葬されました。また、明治天皇崩御後まもなく、国民から天皇を祀る明治神宮の造営が建議され、議会の可決を得て準備調査が進められていましたが、8月15日には昭憲皇太后を合祀することが御内定となりました。

                             【昭憲皇太后御轜と青山御所御車寄】

昭憲皇太后崩御

                        ※轜車(じしゃ)= 貴人の葬送の際、棺を載せて運ぶ車のこと