木戸孝允の帰郷を惜しまれる

 

 長州藩出身の木戸孝允(きどたかよし)は、皇室と国家の行く末を真剣に考えていた人物のひとりです。

 

 明治7年5月13日、木戸は文部卿を罷免されて宮内省出仕となりましたが、これは政府内での意見の食い違いによって職を退き、郷里に帰ろうとしていた木戸のことを惜しみ、天皇がご自身の修養のためにぜひとも側近として働いてもらいたいと引き留められたことによるものでした。

 木戸に与えられた立場は後の内大臣と宮内大臣を兼ねたもので、天皇の補佐役の中でも最も高い地位でした。木戸はこのことに感激して、さっそく加藤弘之・元田永孚(ながざね)とともに福羽美静(よししず)のもとを訪ね、進講についていろいろと相談しました。その翌日には天皇に次のような意見を申し上げました。

「日本の歴史上かつてない今日の困難な情勢においては、陛下がその重大な責務を全うなさって国民を守り導いてゆかれなければなりません」

 さらに翌年8月と9月の2度にわたって、木戸は太政大臣三條実美(さねとみ)とともに天皇に拝謁し、躊躇(ちゅうちょ)なく自分の意見を申し上げました。

「陛下はこれまで我が国の進むべき指針を、五箇條の御誓文によってお示しになりましたが、もしもそれが国民に充分徹底しておらず、聖旨に相反する事態が起こっていたならば、どうか大臣どもをお叱りになり、不審に思われることはすべてご下問していただきたい。大臣をはじめ新政府の職員を集め、天下の情勢や府県の実態について話し合いの場を持ち、すでに施行されている政令などについても実情をご覧になって、充分に論議を重ねていただきたいのです」

 明治9年の北海道・東北巡幸のとき、木戸は右大臣岩倉具視と共に天皇のお供をしましたが、2人は君徳輔導(くんとくほどう)のことを一日も忘れることはありませんでした。宿泊先では、天皇はお供の人々と一緒に酒を酌み交わされながら、その日に見聞したことを夜な夜な懇談なさいました。こうした機会を通じて天皇との絆はいよいよ深められ、臣下は親しみのうちにも各々の務めである君徳のご修養に心を尽くしました。

 

 木戸に多大な信頼を寄せられた天皇は、明治9年4月に木戸の別邸にお出ましになり、

「卿は明治維新より国家のために尽くしてきましたが、今日幸いにして平穏な世の中を迎えることができたのは、卿をはじめ私を補佐してくれた人々の功績のおかげです」

と懇(ねんご)ろなお言葉を賜りました。

 しかし、国家の重責を担ってきた木戸は次第に胸痛の病にむしばまれ、翌年には重症に陥りました。5月18日、別邸に見舞われた天皇に、わずかに首をもたげて手を合わせている木戸。天皇には、

「いま、こうして卿の病状の様子を目のあたりにし、憂いの念を隠すことができません。どうか安静にして回復の道を講じて下さい」

との有り難いお言葉をもってご慰問なさいました。

 君恩のかたじけなさに木戸は病床で手を合わせたまま、お帰りになる馬車を見送り申し上げたのでした。万感せまるこれまでの思い出と大御代(おおみよ)の弥栄(いやさか)えをひたすらに願う思いが木戸の脳裏に去来したに違いありません。それから1週間後、悲しくも享年45歳で逝去しました。

 

【木戸孝允】

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

木戸孝允の帰郷を惜しまれる