


孝明天皇のご遺志
ご幼少の皇子は、ご生母のもとで日課を終えて昼食を済まされると、まず准后(英照皇太后)の御殿で行儀よくご挨拶をしてから父帝(孝明天皇)の御殿に上がりました。父帝からは、毎日「郭公」とか「秋月」といったお題をいただいてお歌を清書され、幟仁親王が拝見して良いお歌には点を入れました。
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ご生母の厳しい躾――中山慶子
明治天皇は5歳のときに中山邸から御所の若宮御殿にお移りになり、そこでご生母中山慶子から教育を受けられました。習字は有栖川宮幟仁親王が、読書は伏原宣明がそれぞれ師範を勤めておりましたが、日常の稽古は読み書きともにご生母が指導いたしました。
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気骨ある養育係――中山忠能
明治天皇の外祖父・中山忠能について、幕末の志士・橋本左内は「公家のなかで最も男らしい人物」と評価しています。
明治維新当初の財政難を解決するために、参与の横井小楠が皇室の予算を削減することを主張しましたが、忠能は「臣下みずからが節約の努力をしないで、陛下にそれを求めるとは何事か」と、反対の意見を述べたのです。
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明治維新当初の財政難を解決するために、参与の横井小楠が皇室の予算を削減することを主張しましたが、忠能は「臣下みずからが節約の努力をしないで、陛下にそれを求めるとは何事か」と、反対の意見を述べたのです。

父帝ご命名の祐の井――ご降誕
明治天皇は、孝明天皇の第二皇子として、嘉永5年(1852)9月22日(陽暦11月3日)京都にご誕生になりました(ご生母は中山忠能の娘・慶子)。
ご幼名は「祐宮」、御名を「睦仁」と申し上げます。
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ご幼名は「祐宮」、御名を「睦仁」と申し上げます。